縁起の法概論
岩本正寧
基本の法則
縁起の法は、ゴータマ・ブッダの悟りの内容を表したものとされ、この法が表している本質を完全に悟ったものを仏陀(正覚者・悟れるもの)という。「縁起を見る者は法を見る、法を見るものはわたし(仏陀)を見る」と表現されている仏教の根本説である。
縁起とは縁(よ)りて起こること、起こる道理を意味する。縁(よ)りてとは条件を意味し、現象あるいは存在の相互依存の関係を表している。
この法はゴータマ・ブッダ(如来)によって発見されたものであるが、「この法則は如来が世に出ても出なくても、それに関係なく、法として定まり決定しているもの」と定義される。
縁起の法の基本となる考え方は
「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す。」
といった文言で表現される。
あるいはもっと単純に
「すべての生起の法は、滅尽の法である。」(生じたものは滅する)
という文言でも表現される。
「これ」あるいは、「かれ」とは、何らかの対象を指し示す言葉であり、それは認識の対象となるもの、あるいは、識別できるものすべてを表していると理解できる。
「これあればかれあり」という文において、「あり」とは何らかの対象を認識したときに同時に作り出される観念であり、一般にいう存在を意味している。すなわち、識別の対象となる何らかの存在は、他の何らかの存在を条件として存在していることを表している。観念上における論理的な存在の関係といっていいだろう。また、「これ生ずるが故にかれ生ず」とは、存在というものを経験上の観察から、時の流れの中に現れている現象として捉えた場合の存在の原理を表す。すなわち、識別できる何らかの現象は、他の識別できる何らかの現象を条件としてそこに生起しているということを意味する。経験的に実証される現象の成り立ちのしくみを表しているわけである。
かの存在の条件がこの存在であるということは、言い換えれば、かの存在が無い場合は、この存在は無いということである。
「これ滅するが故にかれ滅す」も同様に、「これ生ずるが故にかれ生ず」という表現を反対の立場から言い換えた内容である。かの現象が現れているための条件がこの現象であるということは、言い換えれば、かの現象が無い場合は、この現象は現れないということである。
このようにして有と無、生起と滅尽という観念のもとに「これ」と「かれ」を対比させることにより、「これ」と「かれ」がどのような関係にあるかをあいまいさを許すことなくはっきりさせているのである。
「これ」あるいは「かれ」が成り立つための条件である識別の働きは、論理的には識別の対象の有と無という観念の中にそのすべてを捉えることができる。識別の対象が有る範囲が、その識別のすべてである。識別の対象が無い場合その識別は無い。また、経験としての識別は識別の対象の生起と滅尽という観念の中にそのすべてを捉えることができる。識別の対象が生起している場合その識別が経験される。識別の対象が滅尽した場合、その識別の経験も無くなる。
さらに「これ」があれば「かれ」があるという法則が成り立つならば、「かれ」があるところには必ず「これ」の存在が知られるということになる。また、「これ」が無ければ「かれ」が無いという法則が成り立つならば、「かれ」が無い場合は、「これ」も無いことを意味する。従って縁起の法に表された存在の法則は、「かれ」があるならば、「これ」もあり、「かれ」が無いならば、「これ」は無いという逆方向の存在の論理も表していると理解できる。同様に、「これ」が生ずるが故に「かれ」生ずという法則が成り立つならば、「かれ」が生じていないならば「これ」も生じていないことを意味し、また「これ」滅するが故に「かれ」滅すという法則が成り立つならば、「かれ」が滅しているならば「これ」も既に滅しているということができる。従って、縁起の法に表された現象の法則は、「かれ」が生じていないならば「これ」も生じていない、「かれ」が滅するならば「これ」も滅しているという逆方向も表していると理解できる。ここから、縁起の法が、存在の論理、経験される現象の両者における、認識の対象の相互依存の関係を表しているという理解が成り立つのである。
以上をまとめるならば、縁起の法とは、認識の対象となるものすべては、論理的にも、経験的にも、独立した実体としてそれらがあるのではなく、認識される他のものとの相互依存の関係にあるという法則を表現しているという事が出来る。存在するものすべてに共通する原理を表現しているわけである。
ここで、認識の対象となるものすべてとは存在のどのような範囲を表しているかを捉えておかなければならない。
原始仏典では、「一切」という概念を「一切」と名付けられた経典の中で以下のように定義している。
「眼識と物、耳識と声(音)、鼻識と香(匂い)、舌識と味、身識と触、意識と法(観念)を名付けて一切という。人があって(わたしは、この一切を捨てて他の一切を説こう)と言ったとしても、それはただ言葉の上のみで表現されたことであり、ありもしないことを言っているのである」。
五感と意識およびそれらの対象が一切すべてであり、それ以外のものは何もあり得ないということがはっきり定義されている。五感と意識およびそれらの対象とは、言い換えれば認識の対象となるものすべてということができるので、縁起の法の表している原理は一切すべてに共通する原理であるということができるだろう。
一切すべては、独立した実体はなにも無く、他のものとの相互依存の関係の中に現れている。これは、どのような事象もそれが依存している条件次第で移り変わることを意味しており、常住不変な認識の対象はどこにも無いという意味としても理解できる。このことから、「すべての生起の法は、滅尽の法である。」という言葉で説かれた法則も上に考察した縁起の法と同じ内容を表していることがわかるのである。
物事を縁起の法によって理解するためには、始めに対象を識別し、次にその識別された対象がどのような条件によって成り立つかを正確に分析していかなければならない。従って縁起という考え方は識別という働きに立脚している論理であり、一言で言うならば分析論である。しかしながら、この識別という働きそのものも、識別作用という概念として識別の対象となりえるのである。このように識別作用そのものも縁起の公式の中で分析し、万象の成り立ちを説明したものが、十二縁起の法である。
そして、この十二縁起の法の根底にある原理を四聖諦という。
四聖諦(ししょうたい)
仏陀が成道後、初めて説いた教え(初転法輪)とされるもの。この教えが説かれた直後、「覆すことのできない無上の法輪が転ぜられた」と神々が叫んだ(転法輪経)とされている根本的な教理である。
以下の四種類の概念によって成り立つ。
苦諦:これは苦であるという真理
集諦:これは苦の生起であるという真理
滅諦:これは苦の滅尽であるという真理
道諦:これは苦の滅尽にいたる道であるという真理
苦諦(くたい)
苦という聖なる真理。
苦は、存在の本質である不安定という原理を表す。心の世界では、満足していない状態にあること、一般的に言うところの苦しみを表している。これは、心であれ、物であれ、どのような現象でもいつまでも永遠にその状態に留まっていることが出来ないという存在するものに共通の原理を示していると理解できる。
生き物がこの苦という存在の真理をどのような形で経験するかを詳細に分類したものが以下に説明する「四苦八苦」である。
1.生
生まれる苦しみ。生き物が生まれるとはどのようなことか、それは、生まれた瞬間からその生まれた環境で生きなければならないというノルマが課せられることを意味する。これが生まれることの苦しみである。
2.老
老いることの苦しみ。生きる営みを続けることによって疲弊し、身体の機能が衰えていくことの苦しみをいう。
3.病
生きている過程で、病気になることの苦しみ。
4.死
死ぬことの苦しみ。生き物は生きていこうとする意志に支えられているにもかかわらず、それに逆行する経験を免れないことの苦しみである。
5.愛別離苦(あいべつりく)
愛するものと別れる苦しみ。何かと出会うということは、いつかは別れることを意味する。出会ったものが愛しいものであった場合、そこに別れることの苦しみが生起することをあらわす。
6.怨憎会苦(おんぞうえく)
敵対するものと出会う苦しみ。自己を害するものあるいは、互いに争わなければならないもの、憎しみの対象となるものと出会うことから生ずる苦しみをあらわす。
7.求不得苦(ぐふとっく)
求めるものが得られない苦しみ。なんらかの事柄が自己の思い通りにならないために生ずる苦しみをいう。
8.五取蘊苦(ごしゅうんく)
存在の苦しみ。存在を識別作用、形成作用(意志)、感受作用、表象作用、物質(身体)の五つに分析した場合、そのすべてに必ず苦の要素が伴うことが知られている。それ故に存在することそのものが苦であるということができる。すべての苦悩はこの五取蘊苦の中に集結されるのである。
識別作用の苦しみとは、例えば、刑罰が確定している人のように、これから自己の望まない経験をするのだという認識が生じたり、あるいは過去の好ましくない経験を思い出すなど、認識作用があるが故の苦しみを表す。
形成作用(意志)の苦しみとは、怨恨、悲嘆、後悔などの苦悩の伴う意志作用を表す。
感受作用の苦しみとは、自己にとって不快な感覚の経験をいう。
表象作用の苦しみとは、様々な好ましくないイメージをいう。
物質(身体)の苦しみとは、身体に損傷を受けることなど、身体が物理法則に拘束されている現実をいう。
生き物として存在する限り、これら五種類の苦悩は免れないわけである。
人間の文化の本質というものを深く考察してみるならば、人間の文化はこれら八つの苦しみを、いかにして軽減したり回避したりあるいは乗り越えられるかという課題を追求する努力から生まれているのだとも理解できるだろう。これは、人というものが、生命というものの本質的な苦というものを理解し、その成り立ちを分析できる能力があること、言い換えれば人は生命の一員でありながらも生命そのものを批判していく能力があるということを意味している。
苦という原理は「四苦八苦」以外に、以下の三苦という概念でも説明されている。
1.苦苦(くく)
その経験そのものが苦しみであるところの経験。
2.壊苦(えく)
現状が移り変わることによって生ずるすべての苦しみ。
3.行苦(ぎょうく)
存在することをやめられないことの苦しみ。存在に苦苦や壊苦がつきまとうことが解っていても、存在の生起を終わらせることが出来ないという苦をあらわす。これは、深い意味では、個体存在は存在の原因が存続する限り、死によって生存が終わっても繰り返し新たな生存が形成されるという思想を表す難解な概念である。
行苦がなんであるかは、以下のステップの観察あるいは思考を繰り返すことにより、少しづつはっきりさせていくことができるだろう。
諸行は無常である。すべての形成されたものは移り変わる。
諸法は無我である。自己の存在を深く分析してみると、それは様々な要素の集合体である。これが自己である、あるいは自己の本質であるという具体的な対象をどこにも見いだすことはできない。
現象の本質は諸行無常、諸法無我であるにもかかわらず、自己という思いは存在し、しかもそれが連続的に存続し続けているかのように見える。これは、生命の奥底にありもしないものをあるとする強固な働きがあることを意味している。このような働きそのものが苦しみである。
集諦(じったい)
苦の生起という聖なる真理。
苦の原因を表す。不安定をその本質とする存在は安定を求めて移行しようとする。あるいは、満足していない状態にある心は満足した状態を渇望しようとする。このような安定や満足を求める働きそのものが「苦」すなわち存在の条件であり、原因であるという真理を表している。
リンゴが木から落ちるという現象を例にしてみよう。
リンゴが木にぶら下がっているとする。しかし、やがてその状態を維持出来なくなり地面にリンゴが落ちたとしよう。これは、リンゴが木にぶら下がっている状態が不安定になり、リンゴが地に落ちるという形でより安定した状態に移行したと見ることができる。しかし、リンゴが地に落ちたところで、それが最終的なリンゴの安定した状態ではない。やがてリンゴは腐るなり、あるいは人や動物に持って行かれるなり、別の状態へと移行するのである。
ものごとは不安定な状態から安定した状態を求めて移行しようとするが、そこに安定があるわけではない。それ故にすべては変化し続ける。これが、現象の仕組みである。
生命もまたこのような原理に支配されており、喜びと貪りを伴った満足への欲求に常に支配されているのである。このように生命が常に何かを渇望している働きを渇愛(あるいは単に愛)という。渇愛は以下の三つに分類されている。
1.欲愛(よくあい)
身体の味わう五感における感覚的欲求(五欲)にもとずいておこる欲求の働き。一般的に言われるところの欲望を表す。
2.有愛(うあい)
有とは存在をいう。人間が経験しているこの地上とは異なり、永遠に続く優れた存在の領域に対する欲求を表す。
3.無有愛(むうあい)
非存在への愛。形あるものの存在しない精神的境涯だけの世界への欲求を表す。
欲愛を、単に五感における感覚的欲求と定義してしまうと、有愛との違いがはっきりしなくなる。欲愛という概念については、フロイトのリビドーという概念を参考にすると解りやすい。欲愛とは、消化器官における接触欲求が分化、あるいは偏向、あるいは拡大、あるいは発展して生ずるすべての欲求、富、地位、名誉、権力などへの愛も含むすべての欲望と定義できるだろう。
有愛は、一神教が最終的な目標としている世界への欲求であると言っていい。いわゆる永遠の生命に対する憧憬である。これは、人が大変美しく、苦しみの無い清らかな世界の夢を見てその夢が永遠に続くことを願う思いに例えることができる。
無有愛は、ヨーガ行者達が究極の目標とする解脱の世界に対する愛を表す。形有るすべてのものから脱却した自由な境涯へのあこがれである。これは、夢も見ずに熟睡することの満足感に対する要求に譬えることができる。
これらの三つの愛について考察を重ねるならば、欲愛は小さな力で、有愛は中くらいの力で、無有愛は最も強い力で、人を支配しているものであると判断できる。
欲愛はそれが満たされなくとも堪え忍ぶことのできる愛である。生きていく上で、欲愛が満たされないような様々な艱難に遭っても多くの人々はそれを堪え忍んで生きようとすることから、そのことが理解できる。
有愛については、それを満たすために人は命を捨てることも可とするような性質がある。一神教の、人間の文化に対する大きな影響力から、それが、欲愛よりも人の心に対する大きな支配力を持っていることが理解されるだろう。
無有愛の存在については、生存活動は休息を必要としているという点に着目することによって、その存在を理解することができる。熟睡することなしに生活を続けるならば、やがて生きることさえ困難になることから、心の最も奥深くに存在するこの欲求が推察可能である。古代ヨーガ行者達が最終的にたどり着いたのが、無有の世界であることからも人間にとっての究極的な愛であるといえるだろう。
滅諦(めったい)
苦の滅尽という聖なる真理。
「渇愛によって苦が生起している」という「苦の生起」という真理を、観点を逆転して以下のように言い換えた真理である。
「渇愛が滅すれば、苦が滅する」
苦の条件である三つの愛(渇愛)が残り無くすべて消え去った状態。涅槃寂静ともいう。涅槃が何であるかについては論ずることに意味は無く、実際に渇愛を滅した状態を実現した者のみがあるがままに知るものとされる。滅びてしまった状態に対しては、それについて判断する基準が無いためである。
苦の滅尽がなぜ論じ得ないかについては、苦と苦の滅を有と無という概念に置き換えて、パルメニデスの次の思想を応用すると理解しやすいと思う。
「有るということは有るが、無いということは無い」
有るということすべてについては、これこれのものが有るという形で論ずることができる。しかし、無いということに対してそれを有るものとして捉えるならば、もはやそれは無いということにはならない。それ故に無いということは無い(論じ得ない)のである。
具体的には、「眼識と物、耳識と声(音)、鼻識と香(匂い)、舌識と味、身識と触、意識と法(観念)」のそれぞれに対する、愛、想い、思慮、大まかな考察、微細な考察がここで捨断され、ここで滅尽することをいう。
苦という概念について深く考えるならば、それはいつかは消えていかなければならないものという見方もできる。いつまでも続いてよいものを苦ということはできないからである。従って、苦という概念の裏側には常に苦の滅尽が有る。しかし、それが何であるかは、それを実現しない限り、解らないということだろう。
道諦(どうたい)
苦の滅尽に至る道という聖なる真理。
欲の貪りと苦行という二つの極端を離れた中道をいう。それは眼を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃にいたらしめると定義される。
具体的には、以下の聖なる八つの道をいう(八正道)。
1.正しい見解(正見解)
四聖諦に対する理解の確立をいう。
道諦は四聖諦の一部なのだから、自分自身の中から自分自身を引用するとい再帰的な概念構成であるといえる。
また、苦の原因である三つの愛の根本的原因は無知であるとされ、この無知とは四聖諦に対する無知をあらわし、四聖諦を理解していない状態であると定義されている。従って四聖諦が完全に理解された時に、無知は破られ、三つの愛はその拠り所を失い、滅諦が実現し道諦が成就するということになる。
それゆえに、正しい見解の確立は苦の滅尽に至る道の出発点であると同時に最終地点でもあるということになる。四聖諦の構成要素を作り出している原因が四聖諦に対する無知であるという、これもまた自分自身の中に自分自身を含む再帰的な論理である。これは、四聖諦という概念が、何かを定義しているのではなく、存在が存在自身を確実に理解していくための、指標として構成された観念であることを表している。このような指標を自身の中に確立することが、苦の滅尽に至る道の第一歩とされているわけである。四聖諦は概念として表現されてはいるが、その実質は真理を実現するための観察法あるいは実践法そのものを表しているのである。
正しい見解の確立が八正道の最初でなければならない理由は、道の方向性のすべてを見解が決定してしまうからである。
このことは、以下の例えで理解することができるだろう。
ここに人があって、「与えられないものを取って生きていくことが最もすぐれている」という見解を自身の上に打ち立てたとしよう。
この人は、努力すればするほど、学べば学ぶほど、生きれば生きるほど、優秀な盗賊となり、悪業を繰り返していくのである。
この例えから、根本に打ち立てられた見解が誤っていれば、そこから派生するすべてものが誤ってしまうという原理を理解することができるだろう。
欲愛を肯定する見解を打ち立てるならば、どのように努力したとしても欲愛を超えることはなく、欲愛の中に埋没するばかりである。
有愛を肯定する見解を打ち立てるならば、どのように努力したとしても有愛を超えることはなく、有愛の中に埋没するばかりである。
無有愛を肯定する見解を打ち立てるならば、どのように努力したとしても無有愛を超えることはなく、無有愛の中に埋没するばかりである。
四聖諦という見解を打ち立てた場合のみ人は究極の真理へと導かれるのである。
2.正しい思惟(正思惟)
正しい見解の確立から正しい思惟が生まれる。
正しい思惟とは、欲を離れた思惟、怒りを離れた思惟、害意を離れた思惟をいう。
欲望や、願望、期待、思い込み、あるいは、怒りや怨恨、敵意、対抗心といった要素を混入させずにあるがままに物事を分析し、理解していく思惟である。
特定の価値観を絶対視するような見解にとらわれている限り、正しい思惟は難しいだろう。あるがままの現実をあるがままに観察していくことを可能とする、四聖諦という見解を打ち立ててるならば正しい思惟が出来るのである。
3.正しい言葉(正語)
正しい思惟から正しい言葉が生まれる。
嘘、悪口、両舌、中傷、綺語(無駄口)を離れ、真実で有益な言葉を語ることを表す。
4.正しい行い(正業)
正しい言葉から正しい行いが生まれる。
殺生、偸盗、邪淫を離れた行いをいう。
5.正しい生活(正命)
正しい行いから正しい生活が生まれる。
諸欲を追求することから離れた生活をいう。
後に出家社会では、数多くの戒律の制定によって正しい生活の具体的な形が追求される。
在家に対しては、以下の五つの事柄を抑制していくことが、仏陀によって勧められている。
・生き物を殺すこと
・与えられないものを取ること
・淫らな行い
・偽りを語ること
・酒などの嗜好品、薬物におぼれること
6.正しい努力(正精進)
正しい生活から正しい努力が生まれる。
以下の四つの努力をいう。
未だ生じていない不善が、生じないように意欲を起こし、努力、精進する。
既に生じている不善を、捨断するように意欲を起こし、努力、精進する。
未だ生じていない善が、生じるように意欲を起こし、努力、精進する。
既に生じている善が、存続し、増大するように意欲を起こし、努力、精進する。
7.正しい念(正念)
正しい努力から正しい念が生まれる。
念とは観察(サティ)をいう。日常生活において、対象の生起と消滅をありのままに観察する態度を持続させること。
以下の4つの念が説かれている。
(1)身体は不浄
身体において身体を観つづけ、身体の本質を正しく知り、貪欲と憂いを取り除いて生活する。
(2)受は苦
感受において感受を観つづけ、感受の本質を正しく知り、貪欲と憂いを取り除いて生活する。
(3)心は無常
心において心を観つづけ、心の本質を正しく知り、貪欲と憂いを取り除いて生活する。
(4)法は無我
法則において法則を観つづけ、法則の本質を正しく知り、貪欲と憂いを取り除いて生活する。
人が、何かを考えている時、それは正しい念が持続している状態とはいえない。従って、正しい念を実践するためには、よけいなことを考える必要のない時間を作る必要があるだろう。あるいは、よけいなことを考える必要のない出家生活を選ぶならば、正しい念の実践は完璧に出来るということになる。
8.正しい瞑想(正定)
正しい念から正しい瞑想が生まれる。
定とは精神の統一(サマーディ)をいう。
以下の4つの定(四禅定)に分類される。
第一禅
諸欲と不善を離れ、大まかな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある状態。
第二禅
大まかな考察、微細な考察が消え、内心が清浄となり、心の安定から生じた喜びと楽のある状態。対象に惹かれる心の働きが無くなりサマーディより生じた喜びと楽しみのみがある境地。
第三禅
喜びを離れ、平静と念と正知をそなえ、身体で楽を享受する状態。サマーディより生じた喜びも離れ、ただ観察と知恵と楽しみのみがある境地。
第四禅
楽を断ち、苦を断ち、苦もなく楽もない平静による念の清浄に達した状態。
四聖諦における三転十二行
四聖諦はそれを実践し続けることによて完成していく真理である。
四聖諦が三度繰り返されて完成することを三転十二行という。
示転
これが苦という聖なる真理であるという智が生ずること
これが苦の生起という聖なる真理であるという智が生ずること
これが苦の滅尽という聖なる真理であるという智が生ずること
これが苦の滅尽にいたる道という聖なる真理であるという智が生ずること
勧転
これが苦という聖なる真理は理解されなければならない(苦諦の遍知)という智が生ずること
これが苦の生起という聖なる真理は遮断されなければならない(集諦の捨断)という智が生ずること
これが苦の滅尽という聖なる真理は実現されなければならない(滅諦の作証)という智が生ずること
これが苦の滅尽にいたる道という聖なる真理は実践されなければならない(道諦の修習)という智が生ずること
証転
これが苦という聖なる真理は理解されたという智が生ずること
これが苦の生起という聖なる真理は遮断されたという智が生ずること
これが苦の滅尽という聖なる真理は実現されたという智が生ずること
これが苦の滅尽にいたる道という聖なる真理は実践されたという智が生ずること
四聖諦は他にも以下のような様々な説明がなされている。
如
この四つの聖諦は、如であり、如を離れず、如に異ならない。それ故に四つの聖諦というのである。
供養を受けるに値するものの条件
過去・現在・未来における供養を受けるに値するもの(応供)、正しく覚れる者(正等覚)はすべてこの四つの聖諦を、よくあるがままに覚るのである。
輪廻の原因
われわれが久しきにわたって流転し、輪廻してきたのはすべて、この四つの聖諦を知らないがためである。
四つの聖諦を知らないこと。これを無明という。
無限の情報
四聖諦は無限の意味合いをその中に包含していると説明される。
「これが苦である」というその中には無量の色合い、無量の特色、無量の説明がある。
「これが苦の生起である」というその中には無量の色合い、無量の特色、無量の説明がある。
「これが苦の滅尽である」というその中には無量の色合い、無量の特色、無量の説明がある。
「これが苦の滅尽にいたる道である」というその中には無量の色合い、無量の特色、無量の説明がある。
同種の説明に仏弟子サーリプッタによる「像の足跡」の喩えがある。
あらゆる生き物の足跡は像の足跡の中に包含される。同様にあらゆる善法は四聖諦の中に包含される。
順序
四聖諦の理解には順序がある。
家屋において、土台が無ければ、柱は立たず、柱が無ければ、梁は渡せず、梁が無ければ屋根はのせられない。同様に、
苦に対する理解無くして、苦の生起に対する理解はあり得ない。
苦の生起に対する理解無くして、苦の滅尽に対する理解はあり得ない。
苦の滅尽に対する理解無くして、苦の苦の滅尽にいたる道対する理解はあり得ない。
苦を理解する者は、苦の生起を理解する、苦の生起を理解する者は、苦の滅尽を理解する、苦の滅尽を理解する者は苦の滅尽に至る道を理解する。
四聖諦におけるこの認識の順序は、人が空想や思考だけの世界に埋没することなくリアリティ(あるがままの現実)から決して離れないための思考ステップであるといえるだろう。人間にとって苦だけが唯一のリアリティである。なぜなら生きることに伴う苦というものは、空想や思考の世界ではなく、誰にとっても、どうすることも出来ない現実そのものだからである。それゆえに作られたものでないあるがままの真理を理解しようとするならば、この苦というキーワードを根底に置き、常にそれを観察手順の第一歩としなければならない。四聖諦は苦を捉えることを根底とし、最後までそこから目をそらすことのない、言い換えれば現実から決して離れることの無い観察法であり、思考法であると言える。
結論
四聖諦は他にもさまざまな形で説明されるが、要するに以下の実践が奨励されている。
「これは苦である」と努め励むがよい
「これは苦の生起である」と努め励むがよい
「これは苦の滅尽である」と努め励むがよい
「これは苦の滅尽に至る道である」と努め励むがよい
四聖諦の実践
四聖諦は「これは」という目前の現実の本質をその根底から完璧に把握し解析していくための方法である。「これは苦である」、「これは苦の生起である」、「これは苦の滅尽である」、「これは苦の滅尽に至る道である」という観察の実践を根気よく繰り返していくならば、この四つの表現はすべて同じものを指し示していることが理解されるだろう。その同じものとはあるがままの現実の本質である。
あるがままの現実の本質を把握するための第一歩は、存在の自覚である。存在を自覚することと、「これは苦である」ということは同じ意味であることを理解するのが第一の観察である。そしてこの観察をさらに深めるならば「これは苦である」という存在の自覚の正体は、渇愛が繰り返し生起し続けている状態であることが自ずから理解される。存在の自覚は見方を変えれば渇愛の生起の繰り返しであるというのが第二の観察である。
さらに観察を深めれば、渇愛という条件によって苦が生起しているということは、言い換えれば渇愛という条件がなければ苦は無いという真理を表していることが理解される。「渇愛によって苦がある」ということと、「渇愛がなければ苦は無い」ということは、全く同じ本質を見方を変えて表現しているわけである。このようにして、苦の生起を観察し続ければ自ずから苦の滅尽が理解される。これが、苦には実体がないことを理解をする第三の観察である。
苦に実体がないことが明らかになれば、必然的に「これは」という現実が苦の滅尽にいたる道を表していることが理解されるのである。苦とは何か、それは言い換えれば、そのものがいつかは消えていかなければならないというどうすることもできない掟に支配された何かである。消えていかなければならない性質を持った事柄に実体が無いことが理解されると、その生起している事柄は必然的に解消していく方向に向かうわけである。苦という現象に無を通過させる(渇愛を離れる)ことによってそこに道が現れる、といった表現も可能だろう。このようにして観察される現実の第四の特質が苦の滅尽に至る道である。そして、この苦の滅尽に至る道の実践の最初が、四聖諦に対する理解を確立することであることから、再び四聖諦の観察へと導かれるのである。
このように、四聖諦はその最終的な目的を達するまで、循環的に繰り返し観察されていくという構造を持った実践方法そのものであることが解るのである。
世界に様々な思想や価値観が説かれている。四聖諦の理解を深めれば、どのような思想も四聖諦の中に包括的に分類し、さらにその正しい部分、誤っている部分を明白にしていくことができるだろう。
人間の苦悩や生きていく上での苦しみ、存在の不安定を指摘するすべての思想は苦という真理の中に包含される。
これこれの事柄が苦しみの原因、あるいは存在の原因であると主張するすべての思想は苦の生起という真理の中に包含される。三つの渇愛以外の事柄に苦の原因を求めるすべての主張は、苦に対する洞察が足らず、苦の本当の原因を捉えるまでには至っていないと見るべきだろう。
これこれの事柄が苦しみの終わりであると主張するすべての思想は苦の滅尽という真理の中に包含される。苦の原因を正しく明らかにぜずに苦の終わりを定義するすべての思想は、現実に立脚しない観念だけの世界を説いているか、あるいは完璧なものではないのである。
これこれの事柄が幸福になる道である、苦を克服する方法であると主張するすべての思想は苦の滅尽に至る道という真理の中に包含される。苦の原因と滅尽を正しく明らかにぜずにこれらの主張がされているならば、そのような主張のすべては、現実に立脚しない観念だけの世界を説いているか、あるいは完璧なものではないのである。
四聖諦の曼荼羅的構造
四聖諦の四つの概念は、それぞれが互いに相反する関係にある。
「これは苦である」と「これは苦の生起である」は結果と原因という相反する関係にある。
「これは苦の生起である」と「これは苦の滅尽である」は発生と消滅という相反する関係にある。
「これは苦の滅尽である」と「これは苦の滅尽にいたる道である」は目的と手段という相反する関係にある。
「これは苦の滅尽にいたる道である」と「これは苦である」は均衡と不均衡という相反する関係にある。
「これは苦である」と「これは苦の滅尽である」は有と無という相反する関係にある。
「これは苦の生起である」と「これは苦の滅尽にいたる道である」は迷妄と叡智という相反する関係にある。
また、三転十二行相から、四聖諦の1つ1つの概念は同じ1つの方向を指し示していることがわかる。
苦は理解されなければならないとは、苦の終わりを指し示している。なぜなら、苦の本質を言い尽くしたものが四聖諦であるから、苦の理解とは四聖諦の理解を表し、四聖諦の理解が完成したならば、苦の終わりに至るとされているからである。
苦の生起は捨断されなければならないとは、苦の終わりを指し示している。なぜなら、苦の生起を表す渇愛は苦の成立する条件とされており、それを捨断することは、苦の終わりを意味するからである。
苦の滅尽は実現されなければならないとは、苦の終わりを指し示している。なぜなら、苦の滅尽と苦の終わりは同じ意味だからである。
苦の滅尽に至る道は実践されなければならないとは、苦の終わりを指し示している。なぜなら、苦の滅尽に至る道は八正道を表しており、八正道を実践したならば四聖諦の理解が完成し、苦の終わりに至るとされているからである。
このように、四聖諦は苦の終わりというたった一つの方向を指し示しているのである。これは、苦の終わりという、観念では表せない真理の本質に対して、四つの観念を、それを指し示す標識として用いることによって、表現しようとしているのだと見ることもできる。
以上の考察を総合するならば、四聖諦は概念の世界にみごとな曼荼羅を打ち立てる構造をもっていることが理解されると思う。図示を試みるならば、以下のようになる。
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@結果と原因
A発生と消滅
B目的と手段
C均衡と不均衡
D有と無
E迷妄と叡智 |
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順序と方向
苦諦→集諦→滅諦→道諦という順をたどり、道諦の本質が四聖諦の理解であることから、再び、四聖諦の観察を繰り返しながら1つの方向へと向かう。 |
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四聖諦の表している曼荼羅構造は中心には何も無い。言い換えれば、観念化され得ない真理の本質が中心にあり、まわりの四つの概念がそれを指し示すという構造である。そして、四つの概念はそれぞれ互いに相反するがゆえに明確化されるのである。人はこの明確化された形ある四つの概念をよりどころにして、形なき中心を把握していくことができるわけである。
さらに、道諦の構成要素が四聖諦そのものであるという四聖諦の再帰的論理構造、および苦諦→集諦→滅諦→道諦という観察順序から、この曼荼羅は四つの概念を循環しながら形なき中心へと向かっていく構造も持つのである。
四聖諦と縁起の法
四聖諦の表している曼荼羅的構造についての考察から、四聖諦は概念化されえないたった一つの真理の本質を正確に指し示す4つの指標であることが理解できた。そして、この四聖諦が指し示している本質こそが、縁起の法が表現しようとしているものなのである。四聖諦と縁起の法はこのような関係にあるものとして理解することができる。
ここで、さらに考察を深めてみよう。
観察者は存在しない、ただ観察する働きがある。そして、この観察する働きがある故に、存在は存在として存続しているのである。ここで、存在自身が存在のあるがままの本質を観察し始めた場合、その観察をやめないならば観察する働きはいつか終焉を迎え、存在はやがて止滅する運命にある。四聖諦はこのような原理を表現しているといえるだろう。そして、四聖諦こそは存在が存在のあるがままの本質を観察するための完璧な方法なのである。あるいは、四聖諦そのものが、存在のあるがままの本質を指し示していると見ることもできる。
まとめるならば、存在が、自分自身のあるがままの本質を知り尽くしたとき存在は終焉する。ここでいう存在のあるがままの本質を表しているのが縁起の法であり、それを知り尽くすための完全なる指標が四聖諦である。
以上が四聖諦についての概論であるが、何であるにせよ、四聖諦はそれに対する考察を深める程に深遠にして複雑微妙な様相を明らかにしてく性質を持っており、いつまでも何かしらの謎が残るのである。従ってその全貌を明らかにしたという結論には全く至らない。経典に説かれているとおりの如にして如に異ならない不可思議な真理であることだけは確かのようである。
四聖諦については、「諸々の道の中では、八正道が最もすぐれている。諸々の真理の中では、四聖諦が最もすぐれている」とも表現されている。従って、この四聖諦こそは、仏教の説く最高の真理なのである。
...つづく