人生の指針

仏典に説かれている法則は、出家者がその目的(苦の滅尽)を果たすためのものだけでは無かった。在家の一般の人間が、人生に抱く様々な希望を叶えていくための過不足のない法則が随所に説かれているのである。そのような法則は2500年を経た現在でもそのままあてはまるものばかりである。これは、仏陀世尊に質問を投げかけた衆生が、出家者だけではなく在家信者や、異教を信じる者、神々、夜叉などが含まれていたためであると考えられる。このため、その教えの多くは、特定の信条を奉じなければならないといったような条件付けはされていない汎用性を備えた内容である。ここでは、そのような一般の人々にとって有益な法則の数々を、人生のガイドラインとして順次紹介していきたいと思う。
心について 五戒 六方礼拝 自己愛 自己ついて      

心について

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。
 
スッタニパータ/中村 元訳/岩波文庫
この言葉が真実なのかそうでないのかについては、誰でも自らの人生の中で検証していくことができるだろう。
人が福楽を得たいならば、清らかな心を作る努力をしていけば良いだけという明解な教えである。しかしながら、少なからぬ人々が清らかな心は自由に発生できないという困難にぶつかるのではないだろうか。他ならぬ仏陀自身が次のようなことを述べている。「心についてああなれこうなれと思ってもそのようにはならない。それ故にこの心は我ではなく、我がものでもないと見るべし」。ああなれこうなれという思い自体が既に心の働きである。それ故この方法では心を制することは出来ない。発生する心を制御するためには、自分ではないものとしてそれを観察していくしかないわけである。
清らかな心とは具体的にはどのようなものか。仏典の中では、生き物の幸福を願う心(慈悲の心)を発生させることが勧められている。たとえわずかな時間でも慈悲の心を生じさせるならそこから多くの功徳が生まれるとされる。従って、日常生活の中で発生する心を日々観察し、それが慈悲の心に適うものであるかどうかをチェックして、慈悲の心に適わないものであれば、我がものでないその心の生起と消滅を繰り返し観察し、慈悲の心が生じるように心を誘導していく努力を根気よく繰り返していけば良いわけである。
自分の心を観察する努力を繰り返していくと、生まれてからこのかた、モーターが回転するように同じ傾向を持った心の働きを繰り返し生起させ続けていることにきづかされる。すべては心によって作り出されるのならば、運命というものの正体はここにあるようである。従ってここに説かれている道は自己の運命というものをよりよい方向に変えていくための道といえるだろう。
心も情報の集積である。基盤となる情報元は先祖の意識の集合といっていいだろう。この教えは、かなり険しい道であると思う。なぜなら運命を作り出している情報は意識の奥深くに根ざしているからである。しかし、幸福を求める人々にとっては、この教えこそは根本に据えるべき人生のガイドラインなのである。道に迷った時は、いつでもここに戻らなければならない究極の指針である。   

五戒

 
在家に生きる人々に奨励される基本的な努力が五つに分類されて説かれている。
1.不殺生
生き物を害してはならない。他人に害させてはならない。人々が生き物を害するのを容認してはならない。
2.不偸盗
与えられないものを取ってはならない。他人に与えられないものを取らせてもならない。人々が与えられないものを取るのを容認してはならない。
3.不邪淫
知者は淫行を避けよ。不淫を修することが出来なければ、少なくとも他人の妻を犯してはならない。
4.不妄語
嘘をついてはならない。他人に偽りを言わせてもならない。人々が偽りを語るのを容認してはならない。
5.不飲酒
酒は人を狂酔させ、怠惰ならしめる。また、愚者は酔いのために悪事を行う。この不幸の元を回避すべく、酒を飲んではならない、他人に飲ませてもならない、人々が酒を飲むのを容認してはならない。
 
参考:スッタニパータ/中村 元訳/岩波文庫
現実の社会を観察する限り、まるで、人々はこの五戒を破ることを喜びとしているかのように見える部分がある。しかし、戒という言葉の意味合いから考えるならば、もともと人々に備わっている性質のものを達成することを戒と呼ぶことはできない。努力しなければ達成していけないからこそ戒なのである。
個人にも社会にも最低限必要な規制がある。ここには、そのような規制の普遍的で、根本的な原理が説かれているのである。個人のレベルで考えるならば、この五戒が達成できているほどその人は自己の制御が出来ていると言える。五戒の達成に励むほど、人からの信頼や名声が向上することはあっても低下することはないだろう。また、社会全体で考えるならば、この五戒が良く実践されている社会ほど、幸福で文化レベルの高い、住みよい社会であるといえるだろう。
5番目の不飲酒については、飲酒を制しなければならない理由が、狂酔や怠惰、悪事の誘発にある。従って酒だけではなく、同様な作用をもつ薬物なども含まれると考えるのが妥当である。   

六方礼拝

 
東西南北上下の六つの方角を礼拝するという古代インドの風習の内容を改め、正しい六方の意味を定義したもの。この六方を礼拝すべきことを、仏陀が資産家の子息に対して説いたのである。
1.東方は親子の関係
子は、父母に対して次のように奉仕する。
両親を養う。
両親のためになすべき事をする。
家系を存続する。
財産を相続する。
先祖に適当な時に供物を捧げる。
父母は子を次のように愛する。
悪事から遠ざける。
善に入らしめる。
学問・技能を学ばせる。
似合った結婚をさせる。
適時に財を与える。
親子にこのような関係があるならば、東方は護られ心配はない。
2.南方は師弟の関係
弟子は次の仕方で師に奉仕する。
座席から立って礼をする。
師の近くに赴く。
熱心に学ぶ。
日常生活の給仕をする。
教えられたことは自ら繰り返し学習する。
師は次の仕方で弟子を愛する。
良く訓練し、指導する。
習得したことを忘れないようにさせる。
師のすべての知識を説明する。
弟子の長所を吹聴・宣伝する。
弟子が、世の中で利益と尊敬を得られるように計らう。
師弟にこれらの関係があるならば、南方は護られ心配がない。
3.西方は夫婦の関係
夫は次の五つの仕方で妻に奉仕する。
尊敬する。
非礼な扱いをしない。
不倫をしない。
権威を与える。
装飾品を与える。
妻は次の五つの仕方で夫を愛する。
仕事を上手くこなす。
身内を良く待遇する。
不倫をしない。
財産を浪費することなく保護する。
怠惰になることなく、為すべきことを行う。
夫婦の間にこれらの関係があるならば、西方は護られ心配がない。
4.北方は友人との関係
友人に対しては次の五つの仕方で、奉仕する。
与えること。
親しみのある優しい言葉をかける。
相手のためになることを行う。
協同する。
欺くことをしない。
友人はかれを、次のように愛する。
無気力なときに、護ってくれる。
無気力なときに、財を保護してくれる。
恐怖にあったときに庇護者となってくれる。
逆境に陥っても見捨てることをしない。
かれの子孫も尊重する。
友人との間にこのような関係があるならば、北方は護られ心配がない。
5.下方は主人と傭い人との関係
主人は、次の仕方で傭い人に奉仕する。
その能力に応じた仕事を与える。
食物と給料を与える。
病気になった時に看病する。
おいしい食べ物を得たら分けて与える。
適当な時に休息させる。
傭い人は次の仕方で主人を愛する。
主人よりも早く始める。
主人よりも後に終わる。
主人から与えられたものだけを受ける。
仕事を誠実に行う。
主人の徳を吹聴・宣伝する。
主人と傭い人の間にこのような関係があるならば、下方は護られ心配がない。
6.上方は、修行者・祭祀実行者(宗教者)との関係
次の五つの事柄によって、修行者・祭祀実行者に奉仕する。
親切な行い。
親切な言葉。
親切な思い。
門戸を閉ざさない。
財物を給与する。
修行者・祭祀実行者は次の仕方によって喜ばしてくれる。
悪から遠ざけさせる。
善に入らしめる。
慈悲の心(すべての生き物の幸福を願う心)を返す。
いまだ聞かない教えを説く。
すでに説いた教えをより正しく保たせる。
天に至る道を示す。
修行者・祭祀実行者との間にこのような関係があるならば、上方は護られ心配がない。
 
参考:シンガーラに対する教え
六つの方角への礼拝とは、在家の人間関係を六種類に分け、それぞれに対する気配りを意味するものと理解出来る。これらの気配りがされているならば、人生は安全であるという教えである。現在では、師弟の関係を教師と教え子、主人と傭い人の関係を経営者と雇用者との関係に置き換えることができるだろう。
人間関係を規制する法律や制度、慣習、社会通念といったものは、地域によっても異なり、時代とともに変化していく性質のものである。しかし、ここに表現されていることの本質は、時代や地域が変わっても変化することのない、人間関係を良好に保つための根本的な原理であり、原則である。

自己愛

愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。

世間の憂いと悲しみ、また苦しみはいろいろである。愛するものによって、ここにこの一切が存在しているのである。愛するものが存在しないならば、このようなことは決して有り得ないであろう。
それ故に、愛するものがいかなるかたちでも決して存在しない人々は、憂いを離れていて、楽しい。それ故に、憂いの無い境地を求めるならば、命あるものどもの世に、愛するものをつくるな。

愛するものと会うな。愛していないものとも会うな。愛するものを見ないのは苦しい。愛していないものを見るのも苦しい。
愛する人々と離れるが故に、また愛していない人々に会うが故に、はげしく憂いが起こる。それによって人々は老いやつれてゆく。

夜も昼もつとめはげみ、つねに愛しきものを捨て去る人々は、罪悪の根を掘ってなくしてしまう、それは死王の財であり、なかなか超克しがたいものであるが。

もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは容易ではないからである。
もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。善いことを実行する人が、楽しみを得るということは、いともたやすいからである。
もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己をまもるべきである。辺境にある、城壁に囲まれた都市が堅固に奥深く濠をめぐらされているように。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておるべきである。
もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己をまもるべきである。辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も堅固に守られているように、そのように自己を守れ、汝らは瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過ごした人々は、地獄に堕ちて悲しむ。
どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。
 
ブッダの感興のことば/中村 元訳/岩波文庫
人が人生において憂いや悲しみを感じたとき、自らの心を深く観察すれば何かを愛している自分の心の働きの存在を知ることができる。愛するものがあることの憂いをさらに分析してみるならば、それは愛するものと別れることの憂いと愛していないものと会うことの憂いの二つによって成り立っている。それ故に、この愛するものがいかなる形でもなくなるならば、すべての憂いは根絶されるという真理がここには説かれている。そして、この道が困難なものであることも示唆されている。
愛するとはどういうことか、それは選択と結びついている。すなわち、様々なもののなかからどれかを好きになるということである。従って、愛するものが無いということは、太陽の光のように分け隔てなくすべてのものに同じ意識をそそぐことを意味する。このように考えることによって、愛するという思いを超克していくことの意義を理解していくことができると思う。
この愛するという心の働きの源を探るならば、それは自分が愛しいという自己愛であることを理解できるだろう。自分が最も愛しいのだということを理解した人には、それならば自己を守り、自己を悪と結びつけるなという教えが説かれているのである。自己を守るとは、自己の心を観察し、そこから情欲や怒りを取り除く努力を言う。賢い人は夜の三つの区分の一つでもよいからそのような努力をする時をもつべきことが勧められている。愚かな人は寸暇を惜しんでその逆の努力をするのである。

自己について

戦場において百万人の敵に勝つとも、唯一つの自己に克つ者こそ、実に不敗の勝利者である。

たとい他人にとっていかに大事であろうとも、他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の最高の目的を知って、自分のつとめに専念せよ。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、自分の主となり得る。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、自分の目的を達成する。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、徳行を達成する。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、名声を得る。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、名誉を得る。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、幸せを得る。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、天の世界に生まれる。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、永く天の世界にあって楽しむ。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、明らかな智慧を獲得する。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、親族のあいだにあって輝く。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、悩みのうちにあって悩まない。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、いかなる束縛をも断ち切る。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、すべての悪い生存領域を捨て去る。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、すべての苦しみから脱れる。
この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、ニルバーナの近くにある。
 
ブッダの感興のことば/中村 元訳/岩波文庫
自己を観察し、自己を制御していく努力を続けることによって、目的の達成、徳行、名声、名誉、幸福、天への転生、智慧の獲得、悩みのないこと、束縛からの解放、苦しみからの脱出などが得られることが説かれている。
人は他人を幸福にすることはできない。なぜなら、幸いを得る得ないは、その人自身の心、言葉、行いによって決定されることだからである。同様に、他の者がこの自分をどうにかしてくれるということは、よく考えてみれば有り得ないことである。自分がどうなるかは、自分自身の心、言葉、行いによって決定されることだからである。このことわりを正しく理解する人は、自分以外の何かに頼るという考えがすべて無意味であることを正しく知るだろう。

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