縁起の法の価値について
「これあるに縁りてかれあり。これ生ずるに縁りてかれ生じる。これなきに縁りてかれなし。これ滅するに縁りてかれ滅す」。
これを縁起の法といい、ゴータマ・ブッダによって初めて発見されたとされる真理です。すべてを相互依存と条件生起という観点からのみ観察をしていく分析方法を表しており、この方法に基づいて、普遍的真理としての「四聖諦」が説かれ、また存在というものがどのような条件によって成り立っているかを詳細に分析した「十二縁起」という思想が説かれました。そして、この四聖諦と十二縁起が指し示す実践法として、あらゆる苦の滅に至る道である「八正道」が説かれたのです。
この法は表現としては単純に見えますが、丁寧に考察を繰り返すならば、以下に挙げられるようなすぐれた特徴をそこに見出すことが出来るでしょう。
無尽蔵
この縁起の法の表現は、何らかの認識の対象となる存在の条件、あるいは現象の条件を表そうとしていることが容易にわかります。どのような存在あるいはどのような現象もそれ自身を成り立たしめている条件というものが認められます。このような観点に立ってある存在の条件となる存在、その存在のそのまた条件となる存在、あるいはある現象の条件となる現象、その現象のそのまた条件となる現象というように、存在あるいは現象の条件のリンクをたどっていくならば、すべての存在や現象が相互依存・条件生起のリンクの中に網羅されていくことでしょう。これは、存在するものすべては相互依存・条件生起の関係で互いに繋がりあっているという真理を表しています。あらゆる事象は互いに関連しあうことによって存在し、あるべくしてそこにあり、成るべくしてそこに成っているというわけです。このように縁起の法はこのわずか4センテンスの中に、森羅万象を包括する無限の情報が込められいるのだということが理解されます。
心の安らぎ
縁起の法の表現形式をよく見てみると、存在の実体について何らかの定義をしたり断定をしたりする要素が全くないことに気づかされます。ただ存在の条件をあるがままに観察していこうという形式が認められるのみです。何があるところに何があるのか、何が無ければ何が無いのかというあるがままの現実をただ観察していけばよいわけです。あるがままの観察とはすべての観念や妄想や思い込みを離れて物事を見るという態度を表します。人がこのような観察態度によって自身の心を観察していくならば、常に自分自身の心の働きを客観的に眺め、決して自分自身の心の働きに埋没しないという実践を貫いていくことが可能になります。それは、自己の心の超越を可能にしていく道であるということができるでしょう。これは、自己が、自己の心に振り回されなくなっていく道、言い換えれば心の安らぎに至る道と言うことができます。そして究極においてこの観察は、人をして心には実体が無いという理解へと導いていくことでしょう。なぜなら、観察する対象は常に存在の条件のみであり、存在の実体という概念では無いからです。従って、縁起の法に基づいた心の観察は人をして心の安らぎへ導く道であるという理解が成り立ちます。
最高の分析智
物事の成立条件のみを観察していくことは最高の知性の確立にも繋がります。相互依存・条件生起の観察をし続けることにより知性はより強固になることはあっても衰えることはありません。縁起の法はどのような複雑な事柄でも、その成り立ちとしくみを、いかなるあいまいさも無く余すところ無く明らかにしていくための方法を表しています。なぜなら「これが有るによりてかれ有り。これ無きによりてかれ無し。」といった観察はいつでも有るか無いかの2つに1つの答えしか用意されていないため、その観察においてあいまいさを進入させる余地が無いからです。このように対象が成り立つための条件を明解かつ正確に分析していくこの法は、すべての識別の対象に対して適用することが出来ます。それだけでなく、さらにその対象の条件となる構成要素をどこまでも正確かつ詳細に掘り下げて解析していくことができます。縁起の法による観察に熟達していくならば、単なる思い込みによって判断されている事柄と、現実の成立条件のあるがままの観察によってなされた判断との違いを正確に理解していくことが可能になることでしょう。そして、思い込みを離れた現実の理解が可能になるほどその人の知性はより確かなものとなるのです。すなわち、縁起の法は究極的な分析智を獲得していく道であると言うことが出来ます。
福徳の扉
相互依存・条件生起による観察手法を理解し、それに基づいて物事を観察しようとするのは誰なのでしょうか。それは、自分自身以外にはありません。この法の中に他の者をよりどころにしなければならないという要素は見られません。縁起の法は純粋に自己をよりどころにした観察手法を表していると見ることができます。このため、縁起の法による物事の条件の観察を繰り返すことによって、人は物事を他から教えられた価値観ではなく、自分自身によって正確に判断していくことができるようになります。物事の正確な判断が可能になっていくとはどういうことでしょうか。それは、正しい善悪の基準をその人自身の中に確立していくことを可能にすることを意味します。物事の成立条件だけを追求する観察は、これこれの価値観のためなら悪業も善業となるといったようなロジックを進入させて物事を判断することが無いためです。このようなロジックによってものを考える限り人間は善悪の正確な判断が永遠に不可能になってしまうでしょう。そして、何が正しく何が誤りであるかを自らによって判断することが出来るようになるならば、人は自ずから悪業を縮小させ、善業を増大させようという方向へ向わざるを得ないでしょう。なぜなら自分自身がそのように判断するからです。このことは人々の前に、幸福に至る道が開かれることを意味しています。
融通無碍
この縁起の法の表現には、ものの見方において物差しとなる基準というものがありません。これは、物事を判断することにおいて、決まりというものを作らないことを意味します。現実の生活において物事をどのように判断していくか、それは常に目前にある現実のあり方が決定するのです。なぜならこの法による観察が最初から最後まで着目しているのは現実を成立させる条件の部分だけだからです。目前の現実を構成する条件が変化すれば、当然それに対する様々な判断や対応も同様に変化する、あらゆる物事に対してただそれだけの判定を縁起の法は下していくことでしょう。これといった決まりは無い、しかしながら正確に物事を判定していく、縁起の法は現実に対するそのような対応を可能にしていくと言うことが出来ます。そして、縁起の法によるものの見方は、人間自身の作り出すあらゆる価値観・思想に対しても適用していくことが出来ます。すなわち、人の作り出す様々な価値観・思想に対して、それらが発生する条件、理由、原因、あるいはそれらが成立する条件、理由、原因というものを解析していくことが出来ます。そのことによって、人の世に知られる様々な価値観・思想をそれらを作り出した人々の立場に立って理解し、なおかつそれらを超えたものの見方が可能となります。それ故に、人間自身の作り出すあらゆる価値観・思想に対立することなく、それらを包含し尚且つそれらを超えたものの見方を表現することも可能となるのです。このように、縁起の法は現実に対しても、あるいは観念に対しても融通無碍の道を切り開いていくことを可能とする道でもあります。
中道
もし、物事を正確に理解したいならば、一切のこだわりを捨て、ものごとをどこまでもあるがままに観察していかなければなりません。なぜなら、こだわりを以てなんらかの対象を観察する限りその対象を正しく観察していくことは出来ないからです。このように正確に物事を見るということは、こだわりを捨ててものごとを見ることと同じことを意味しているということが理解できます。それでは、こだわりを捨てるとはどういうことなのでしょうか。それはすべての偏りを離れ、観念化され得ないものごとのたった一つの中心を把握していくことを意味します。このようなことはよくよく考えてみれば大変困難なことであるといえます。その理由は、ほとんどの人間は何らかの観念に従って物事を判断するように習慣付けられているためといえるでしょう。そのほうが物事を判断する作業が楽になると考えられているからです。すべての事象には、紙の表と裏のように互いに反する二つの側面を見ることができるでしょう。こだわりを離れるとはこのような二辺のどちらかに偏ることを離れてものごとを捉えることを表します。そのためには対象そのものを見ようとするよりも対象を成り立たしめている条件を観察するのが最も効果的です。なぜなら対象そのものを見ようとすると必ずその対象を定義するための観念が生起してしまうからです。それ故に縁起の法に従って、相互依存・条件生起という観点からのみ、ものごとを根気よく観察していくならば、二辺を離れてものごとの中心を把握するという困難な作業を正確に可能にしていくことが出来ます。観念を離れた中道を求めることと、縁起の法によって観察をしていく努力は同じことを意味しているわけです。このように縁起の法はものごとの中心を正確に貫くための最高の指針として理解することができます。
最上の効率
縁起の法によって色々な事象を観察することにより、「このような事はあり得るが、このような事はありえない」、「こうすればこうなり、ああすればああなる」といった存在を支配する誰にもどうすることもできない法則を丁寧に理解していくことが出来ます。なぜなら現象の成立条件を観察していくことは、どのような条件のときにこの現象は成立するのかという法則を明らかにしていくことを意味するからです。このような法則を明らかにしていくならば、人が何かを成し遂げようとするときに、そのために必要な事柄と必要でない事柄を明確にしていくことができるため、最も合理的で効率的のよい方法を見いだしていくことができるでしょう。特に、未来を予測しなければならないような場合、空想や期待や思い込みを入れないで予測を立てることが重要な要素となります。現状の条件から何が生起するかというように、条件生起の法則をひたすら理解していくことは、空想や期待や思い込みを排除して未来を予測していく努力と同等のものです。このように、縁起の法に基づいた思考法は、物事を成就するための過不足の無い最も効率的なルートを明らかにし、可能な限り未来を正確に予測していくことに役立ちます。すなわち縁起の法とは、正確で最上の効率を明らかにしていく思考法であると捉えることが出来ます。
不動心
縁起の法による観察を徹底して自分自身に向けるならば、どうなるでしょうか。それは、自己の心の働きを発生させている条件、その条件をさらに発生させている条件というように、心の発生条件を徹底して掘り下げていくことになります。これは、自己の存在を底の底まで観察し、自己の現実から眼をそらさず、いかなる妥協もなくその成り立ちを明らかにしていく道というべきでしょう。このような努力を続けることは、自分自身を深く知り、さらには自分自身からの解放を可能としていきます。自己というものは、それを深く理解することにより少しずつそこから解放されていくものだからです。このような努力によって獲得されていく確信というものは、他から与えられたものでもなく、信仰や思考や知識によって作られたものでもなく、純粋に自己に立脚しているため、何かに揺るがされるということがありません。なぜなら自己とはどのような状況でも常に目の前にあるものだからです。また、自己を知るとは、自分の可能性と限界を正しく知ることでもあります。従って、自己を知る努力によって、自分に実践可能な自分自身のなすべきことを明らかにしていくことも出来ます。このように、縁起の法とは自己の中に不動の信念を確立していく道とも言えるのです
金剛不壊
心の世界でも物の世界でも存在するものは、常に移り変わっていきます。これは、すべての存在が条件によって生起しており、実体というものが無いことを表しています。存在が条件によって生起しているということと存在が移り変わるといことは同じことを意味していると言えるでしょう。従って、すべてが移り変わっていっても存在が条件によって生起しているという法則そのものは変わらないわけです。そして、縁起の法とはまさしくこのような法則そのものを表現しているのです。従って、縁起の法は、どのような場所でも観察され、どのような時でも常にあり、過去、現在、未来に渡って変わるこがない、普遍にして不変の法則として捉えることが出来ます。存在に属するものは壊れることはあっても、存在を支配する法則であるこの縁起の法そのものが壊れることはありません。すなわち、縁起の法こそは、金剛不壊の世界であり、金剛不壊の拠り所であるという認識がここに成り立つのです。
このように、縁起の法はその中に、人間にとって有益な数々のすぐれた特質を考察するこが出来ます。しかし、いずれをとってもそれを成し遂げていくことは困難な道であることと思います。それ故にこそ仏典には縁起の法の目的を成し遂げていくためのさらに具体的な方法や教えが膨大な量をもって記述されているのでしょう。仏典を読むことの面白さはこのような点にあると思います。
